旅立つ前に
 旅の日記
 旅のルート
 旅の道連れ
 旅の本(妻)

 

 

 

旅に出てやりたいことのひとつに、「ゆっくり本を読みたい」というのがありました。そんなの日本でもできるじゃん! とのお叱りを受けそうですが、やはりバタバタした日常のなかで読書の時間を取るというのは私たちにとってなかなか難しいことでした。旅に出てみると確かにその希望は叶ったように思いますが、難点がひとつ。当たり前のことですが、日本語の本はほとんどの場所で売っていないということです。

 

昔、ある旅行者がこんな話をしてくれました。

「10年前に初めてインドに行ったときに、5冊の本を持っていったんだよ。読み終わって日本人の旅行者にあげるときに、なんとなく気になって、今の年月と居場所、それから自分の名前を裏に書いたんだよね。そんでね、先月ネパールに行ったらなんとそのうちの一冊がツーリスト・カフェに置いてあったんだよ! 裏をみたらちゃんと昔書いた自分の名前が残っていたし、しかも全部じゃないにしろ、その後にいろんな人の名前と読み終わった年月が書いてあるんだよね。俺が旅してたように、本も旅してたんだな〜と思ったら、実に感動したねぇ」

旅先のツーリスト・カフェで交換してもらったり、旅人同士で交換したり……なんとかしてゲットした日本語の本たちはときには私たちよりもはるかな旅をしているのかもしれません。何でも好きな本が手に入るという状況でない以上、その本との出合いもひとつの旅ではないのかな〜と思います。読んだ本を紹介するのは自分の本棚を見せるようでかなり恥ずかしいものがありますが、そこは「旅先でこれしか本がなかったんだよね〜」というエクスキューズを効かすとして、旅で読んだ本たちをご紹介していきます。

最終更新日:2003年11月8日

 

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「世界王室マップ」 時事通信社編

旅立つ直前に、大学時代の友達、なかおっちがくれたもの。彼女は一見普通の人だが、おぬし、なかなかやるなっと思わせるポイントがいくつもあって、いつも彼女の前に出るとむむむとうなってしまう。こんな本の贈りものとその後くれた手紙もそんなひとつ。「適当に買ってきた〜」と言ってたわりに、各国の王室事情が国ごとにまとめられたものは読み物としての価値はもちろん、旅した国、これから旅する国の知識を得るのにも役立った。ちょうどカンボジアの湖につき出たゲストハウスのテラスで「カンボジア、シアヌーク殿下」の項を読んでいたのでなおさら。そこで読み終わったため、国境超えで出会った悠平くん(彼の詳細はこちら)に譲った。彼なら私よりももっとこの本からいろいろなことを受け止めてくれると思うし。

 

 

「性の20世紀」

これもなかおっちからもらった本。モーレツなタイトルだけど、内容はいたって真面目。コンドームの歴史を詳細に追ってみたり、日本人の買春ツアーの実態を明かしてみたり、かなりジャーナリスティックな本だ。それもあって解説は花田氏。軽いタイトルの割に、読み応えがあった。ハノイの古本屋にてこちらが2冊持っていって1冊と交換という不平等条約によって手元を離れていった。どこぞの旅人が「あっ、エッチな本かも!?」なんて期待して手に取っている姿が思われる(笑)。

 

 

「おバカさん」 遠藤周作

これもなかおっちからもらった本。彼女のセレクトはホントにいい。確か中学か高校でコレを呼んでいたく感動し、読書感想文を書いたような記憶がある。ちなみに私の母も大好きな本。遠藤周作といえば旅人の間では「深い河」があまりにも有名だが、解説にもあったようにあちらを陰とするとこちらは陽だ。フランスからたったひとりで日本にやってきたガストンという男の物語は心がほっとあたたまり、最後はなんだかちょっぴり切ない。そうそう、このエンディングに関してはともちゃんとちょっとした議論にもなったほど(笑)。その少しあとに「深い河」を読んでいて、思わずあっ!と声をあげた。何を隠そう、そこにあのガストンがちょこんと登場してくるではないか。シリアスななかに隠れた遠藤周作のちょっとしたいたずら心がうれしかった。こちらもハノイの古本屋で交換。どこかの知らない誰かが異国でこの本に癒されることを願いつつ。

 

 

「深い河」 遠藤周作

旅立ちまでに「この本はマストね」とどさーっと買ってともちゃんに渡したものの、多忙な日々のなかで彼は結局読みきれず、そのまま持って旅立ったもの。インドに関する本はほんとにごまんとあるが、なかでも旅人のなかで人気が高いのがコレ。たぶん各国の古本屋、カフェなどツーリストが置いていった本のなかで一番多いのがこの本じゃないか? と私は思っている。インドの聖地、バラナシを中心に繰り広げられる人間模様はその内容もさることながら、なんといっても構成がうまい。旅にいるとふとしたことで人間と人間が交差していく瞬間を感じるけれど、それを文章として読ませるのはさすが。確かに私がいままで行ったインドの中で一番刺激的だったのがやっぱりバラナシ。インドに、バラナシに興味のある人はぜひご一読を。ハノイで合流した友人、菊川さんが持っていた「百」と交換した。菊川さんはその後日本に戻ってしまったけれど、本棚にあるこの本を見て、フト昔の長旅を思い出したりしてるのかしら。

 

 

「アフリカ日和」 早川千晶

バックパッカーには絶対的な支持を誇る旅行人社から出されている(雑誌のほうではときどきエッセイも載ってる?)アフリカの生活を綴った本。旅立ち前にはたと「世界一周しようったって、アフリカなんてなんの知識もないじゃん」と気づき、慌てて本屋に走って買った。その目測は見事あたり、私たちは俄然アフリカに、それも筆者の住むケニアに行きたくなってしまった。特に街を走る乗り合いバス、マタトゥには絶対に乗りたい! ということでふたりの意見は一致した。このマタトゥとはただの乗り合いバスを越えた、一種のカルチャーになっているバスのことらしい。おっさん仕様と若者仕様があり、若者仕様の車には派手なペインティングがなされ、ヒップホップやレゲエがガンガンにかかっている。東南アジアにいるというのに、一種の暴走族の生活密着版? なこの乗り物に「ぜひ乗りたい! ケニアに行こう!」と決意を固めるふたり。ハノイの古本屋にて交換。こういった本屋はやはりガイド・ブックのほうが価値があると見られているので「これはアフリカに関するグッド・ガイドブックだ!」と力説してみたものの、「あたしゃー、日本語わからないからね、それにこれはどう見ても普通の小説のようだよ」とあっさりあしらわれ、玉砕。

 

 

「辺境、近境」 村上春樹

こちらも旅立ち前に旅心を盛り上げようと自ら買った本。旅紀行が短いのから長いのまで4、5編収録されている。彼の書くエッセイはフラットで正直なので、本人はそんなつもりはさらさらないんだろうけど、けっこう参考になる。特にアメリカ横断を考えている私たちに「いいですね、絶対にプール付きのモーテルに泊まってはいけません」、「食事も風景ももう嫌になるほど変わりばえしない」などという言葉は、ううむ〜と考えさせられてしまうのだ。それから香川県を旅した「讃岐うどんディープ紀行」、これはヤバかった。次々出てくる超ディープなうどん描写に、うどんとやらからどんどん離れて2か月の身を「いやああん、やめてえええ」とよじらせて読んだ。教訓。海外旅行に日本食に関して書かれた本を持っていってはいけません。制裁としてカトマンドゥの古本屋に置いていった。これを読んで「うどん、うどん、食いてー」と身をよじらせる旅人の姿をいじわるく想像した。

 

 

「亜細亜ふむふむ紀行」 群よう子

これもともちゃん用に買ってそのまま持ってきた本。いままで海外旅行をしたことのない彼に、あんまりハードなものを読ませて引いてしまってはいけないという考慮もあって、「これはソフトだろー」と思うものもさりげなく混ぜてみた。群よう子といえば猫のトラちゃんにまつわるエッセイ、その名も「トラちゃん」が大好き。対してこの「亜細亜〜」はこんなことを言ってしまうと失礼だが、まあ別にフツーにおもしろい旅紀行だろう。ただし彼女の旅は2泊3日の香港買い物ツアーとか、他人にとっては一見おもしろくもなんともなさそうな(これまた失礼)旅が主題だ。それをフツーにおもしろく書いてしまうのだから、やっぱりプロはさすが! と思ってしまう。

 

 

「ひとひらの雪 上・下」 渡辺淳一

昆明にて、タイのチェンマイにいる私の父と合流する際に「なんでもいいから読み終わった本持ってきてー」とお願いして持ってきてもらった本。詳細は知らないが、成田の本屋さんで平積みされていそうな、「フライト中の退屈をまぎらわす本」の筆頭にあがりそうな感じだわ、と思った。内容は……まあ、渡辺淳一ワールド。ただし私は失楽園の頃から「なんでこれがベストセラーなワケ?」と反旗を翻していたクチなので、コレに関しても同じ。解説で「渡辺淳一は谷崎潤一郎に匹敵する……」ような内容があったが、谷崎と一緒にしちゃあいけねーぜっとひとり中国でご立腹していた。また渡辺ワールドによく見られるように食べ物、とくにこれは和食の描写がひんぱんに出てくるため、違う意味で生唾ごくりの瞬間がたびたびあった。カトマンドゥの本屋で一冊60ルピー(=100円)にて売る。

 

 

「東京下町殺人事件」 宮部みゆき

これも父が持ってきてくれた本。日本にいるときは推理小説はまったくといっていいほど読まなかったが、旅に出ると時間があるせいか、つい夢中になって読んでしまう。こちらも移動の列車のなかで3時間ほどで読みきってしまった。中国にいるのに下町はないよねーと思いながら、複雑に絡んでいく事件に夢中になった。推理小説の感想ってのは難しくて読み終わるともうそこで自分のなかで完結してしまって「感想は?」と聞かれるとつい「犯人はねー」と言いたくなってしまう。まあそのぐらいよくできている本です。その後、カシュガルで会った大学生の佐孝くんと交換。彼はその後、なんと戦下のアフガニスタンに向かったそう。私たちはとてもじゃないけどそんな場所には行けないけど、もしかしたら本だけはしっかりアフガニスタンの街を見ているのかも。

 

 

「密告」 真保裕一

これも父が持ってきてくれた本。なにやらハード目な空気の漂うカバー、それから文庫本にしてはずっしり目の重量とこのタイトルから「コノ本は本気だ」と圧倒的に威圧されてしまったのだが、読後の感想は……「なーんか話が小さくないかぁ〜」。密告というタイトルどおり、何者かによって密告された事実が主人公に被害をもたらし、その真犯人を追う……! だが、そもそも話の出発点としては「ま、仕方ないよね、人生いろいろ理不尽でツライこともあるよね」とポンポンと肩をたたき、男性ならここで駅の高架下の赤提灯でも行って人生を語らってチャンチャン、っていうレベルの話。要は「チクった、チクられた」の次元の話だから、いまいち主人公に肩入れできないのだ。まあそのボリュームもあって話は複雑にからんでいくので読み応えはあるのだが、フトした瞬間に、「でもさ、そもそもチクられたからってここまでしちゃうんだよね」と冷静な状況判断が頭をかすめ、ヤル気がしおしおとしおれていってしまうのがわかる。「やっぱ推理小説はさ〜、少なくても殺人が絡んでないと燃えないっつうかさ〜、複雑な殺人がいくつか絡んででもつきつめていくうちにさ、どっかひとりの真犯人にたどり着いてさ〜、おまえだ!って感じで名指ししてさ〜……」な果てもなく、私の無責任で残酷な「推理小説論」を別の本を読書中のともちゃんに無理やり投げかけ、「ああ、うんうん」などと気のない返事をされる始末。昆明から上海までの長距離列車で同室だった日本帰国直前の旅人にプレゼント。「帰りの飛行機で読む」と言っていたから、いまごろは早々と日本の土を踏んでることだろう。

 

 

「青が散る」 宮本輝

ハノイの不平等条約古本屋にて、「なるべく厚めな小説で、時間潰しになりそうなもの」という観点だけで選ばれたもの。宮本輝と言えばなーんかスマートな小説家として「ダバダ〜」のネスカフェのCM……あれ、それは宮本亜門だっけ?と頭を悩ませながら、「でもなんかカッコツケでイケ好かない感じ」というのが私の印象だった。実際、カシュガルでこの本の引き取り手となった学生くんの「宮本輝ってな〜んかつい読んじゃうんですけどいままで自分的に当たりだったっての、一冊もないんスよね〜」という発言に「そうそう、私もそれが言いたかったの!」とうれしくなってツバを飛ばしながら賛同したし。旅人にはドナウ川に沿って旅し続ける悲しい男女の物語(だったっけ?)「ドナウの旅人」があの辺の地域の参考になる、ということで人気があるのかもしれない。でもってこっちの「青〜」のほうはいたってまあ宮本ワールドで、話はゆるゆるとダメ〜な感じで進んでいき、それは退屈なようでそれこそ退屈しのぎになったのでまあこれで良かったのかな、というよくわからない不思議な気持ちになった。その本をあげた大学生は先ほども登場したアフガン行きの彼だ。戦下の地で日本の大学生のテニス部の、だらだらとしてちょっと切ない恋愛小説を読んで、同じ大学生として自分はどこまでも人と違うんだろうという優越感と劣等感が入り混じった気持ちになったりするのだろうか。でもってちょっと日本に帰りたいな〜なんて思っちゃったりするんだろうか。この小説自体はイマイチだったけど、不思議とこの本の行方は気になるところだ。

 

 

「河童が覗いたインド」 妹尾河童

解説で椎名誠氏が「数あるインド本のなかで輝く! インド本ナンバーワンが登場した」と絶賛しているように、椎名誠が言うことは割合なんでも好き、でもって本人も大好きなことを差し引いても、「そうだ、そうだ、やっぱり椎名さんは正しい!」と力強く賛同してしまう本がコレ。やっぱりコレもともちゃん用にと買った本。丁寧という言葉を超えて「緻密」な絵+本文(本文もすべて手書き……河童氏と編集者氏の苦労が目に浮かぶ)は河童氏の見たありのままのインドがあまりにも素直に描かれていて、あまりにありのままぶりに妙に「インドなのだぞよ」と構えてしまうこちらをリラックスさせてくれる。でも実際インドに行ってみるとその「ありのまま」をありのままに受け止めようとすることがいかに難しいかということを毎日イヤというほど知らされてみたりして、ああこの本は偉大だにゃ〜とふと思って宿に帰ってまた開いてみたりする、そういう本なのだ、コレは。

と思い、今回も旅のお供に持ってきてふとパラパラとページをめくってみるとやっぱりおもしろい。自分たちが行くことを考えつつ頭の中の地図でその場所を確認しながら読むとなおさら熱中してしまう。というわけで親の心子知らず、この本から漂う緻密な空気に早くも「む、インドだぞよ」と身構えて「インドに行ったら読むよ」と興味を示そうともしないともちゃんに代わって、「あー、おもしろいねー、ホントにおもしろいねー」とちびまる子ちゃんのようになりながらパラパラとページをめくる妻。そんな光景がタイ、カンボジア、ベトナム、中国、そしてここネパールまで続いている。次なる国はインドだというのに。

 

 

「マンガ禅の思想」

カシュガルで会ったアフガニスタン行きの学生氏と交換でもらった本がコレ。「マンガ禅の思想」という軽いんだか重いんだかわからないタイトルも気になったし、やっぱり中国にいるというのもそういうものに興味をそそられる一因だった。「でも、オレこの本はダメだったす。手がつきにくかった」となかば敗北宣言状態でその本をもらったときは「フン、そんなもんかねえ〜」と思っていたけれど、結局私も最後まで読みきれないままに手放すことになった。おもしろくないかというとそうでもない。「ふんふん、なるほど」と思うのだが、なにかぐいぐい引き付けられるという感じがない。「色即是空、空即是色」をマンガで解説してもらってもなんか腑に落ちない。私は結局腑に落ちないままに、なかば敗北宣言状態で手放すことになった。引き取り手は、ラサ〜カトマンドゥを中国製のチャリンコで駆け抜けたイカすチャリダーの兄ちゃん。私と違って彼なら腑に落ちてくれるかもしれない。そんな期待を持ちつつ、また彼と再会する日を楽しみにしている。

 

 

「どちらかが彼女を殺した」 東野圭吾

これもカシュガルで会った大学生くんと交換したもの。「究極の推理小説」とのうたい文句があるだけあって、最後まで犯人を明かさないという小憎いテクニックが使われていた。解説が付いていたのもあって、たいていの人は最後は犯人がわかるようにはなっているけれど、なんつうか推理小説で犯人がわからないことがこんなに気になることなのかということを思い知らせてやるぅとでもいわんばかりの術中ではないか。ここに私もまんまとハマってしまい、読後いきなり「なんかヤリ方はウマイと思うけど、正々堂々としてないっていうかさ、推理小説はやっぱりさ、最後にはダーンと犯人を追い詰めてくれないとさっ……」とまったく興味のなさそうなともちゃんに向かって「私の推理小説論」をくどくどと述べるのだった。けれどともちゃんにとってはまた別の琴線に触れたようで、その後タメルの古本屋でもって本作の続編とも言える「私が彼を殺した」を喜々として購入、「うーん、犯人がわからない〜」とひとり悶えているのだった。

 

 

「旅で会いましょう」 グレゴリ青山

敦煌の、トタン板でできた「ツーリスト・カフェ」という言葉がこそばゆくなるぐらいただの飯屋然とした食堂にあった本。その食堂は隋さんという日本語がペラペラの、どうも「昭和」を連想させるような、ちょっと古いタイプの匂いのする中国人のおっちゃんがオーナーだった。けれど見たとおり古いタイプの苦労人という風情となかなか親しみやすいキャラクターがあって、その店は日本人をメインにけっこう繁盛していた。所在無く数冊の本が佇む本棚のなかにひっそりとあったその本はそのひっそり具合に反して、なかなか笑える本だった。ロシアに向かう船でプロポーズしてくるタフガイかつダメダメ男のフランス人(確か)オジサンと会った話とか、税関かどっかで「漫画家だ」というとアジア諸国ではけっこうなネームバリューのある「ちびまる子ちゃん」の作者と間違われた話とか、ダメ話がメインである。基本的にダメダメ話が大好きで、そのうえ絵もダメダメな感じなのも気に入って、しばしその食堂で読みふけってしまった。マンガだったのであっという間に読み終わり、またその本をひっそりとした本棚にもとのように戻してきた。

 

 

「IT汚染」 吉田文和

これも父に持ってきてもらった本。「たまにはマジメなのも読まなきゃ」というお言葉通り、マジメな内容に圧倒される。残念ながら10ページも読まないうちに断念してしまった。作者がともちゃんと漢字一字違いだということを発見したときはうれしかったが、それ以外は何も得られなかった。日本語の蔵書ではカトマンドゥ一の古本屋、「ナイチンゲール」にて50Nルピー(=約100円)で引き取ってもらった。

ちなみに私はこの「ナイチンゲール」という店名がいたく気に入っている。旅先で「う〜、母国語の本が読みたい〜」と禁断症状が出た旅人に、まさにナイチンゲールさながらそっと古本を貸し出す古本屋、そんなイメージで付けられた名前じゃないかしらと想像すると、なんだかうれしくなってくる。この本も誰かのナイチンゲールになってくれるといいわ〜なんて思いながら手放した。

 

 

「中吊り小説」

旅先の読書は、ときとして時間がこま切れになることがある。移動のときに読む本はもちろんのこと、部屋でさあ読もうと思っても宿の人にドアをノックされたり、寝る前にちょこっとだけ読みたかったり。そんな「こま切れ読書用」本としてピッタリなのがハノイで見つけたこの文庫本だ。吉本ばなな、椎名誠、曽根綾子、和田誠など蒼々たる顔ぶれの、5〜6章程度で完結する短編小説が何本か入っている。なんでもJR東日本の企画で電車の中吊りに一週間ごとに連載されていた短編小説を一冊にまとめた本だという。私も確か当時車内で見た記憶がぼんやりとある。

車内で連載されていたということもあって、多くの作者が「電車」やら「移動」やらを意識して書いている。それぞれの作家の視点もテイストもそれらのテーマの盛り込み方もまったく違うので、飽きることなく楽しめた。むしろ、作家同士が決まったフォーマットでガチンコ勝負しているような緊張感があってよい。そしてこちらも「ああ、コノ人はやっぱり長編のほうがいいかも」とか「ウマイ!」とかエラソウに評価しながら読んでしまった。やっぱりぐっときたのは吉本ばなな。得意の、残像を覚えさせる不思議な物語は、電車の中吊りで読んでも、その後会社に行くまでなんとなくぼんやりと考えてしまいそう。曽根綾子もこの本のなかでは際立ってストイックな話だけど、ついついジーンときてしまった。上と同じくカトマンドゥのナイチンゲールにて手放す。

 

 

「百」

ハノイにて菊川さんと交換してもらった本。私の知らない時代の日本が目の前に生き生きとよみがえってくるようで、夢中になって読んだ。特異な環境で育ち(といっても戦中の日本ではどの家庭も多かれ少なかれ特異な環境ではあるのだろうけど)、一匹狼の博徒として生業を立てていく「私」。孤独感と劣等感に満ち溢れた「私」の目を通して描かれる「私」自身、家族、浅草、時代……はあまりにリアルで、読み終わったあとにぼんやりと残像を覚える。

旅で知り合う西洋人旅行者のなかには、時々「日本」を大勘違いしている人もいる。「日本では腹キリはいまもあるのか?」と真剣な顔で聞かれると、思わず「う〜ん」と首を捻ってしまう。けれど、私だって私の生まれる前の時代について、本当のことは何も知らないのだ。こうした本を読み、「ふむふむ」と唸ったところで、かの西洋人旅行者と大差はないのかもしれない。

 

 

「世界の地理がわかる本」

ともちゃんが日本から持ってきた本。そのタイトルどおり、世界の地理について地図、図説付きで詳しく書かれている。ハッキリ言って高校の地理の教科書と同じ。高校生の頃は7・3分けにした妙にアブラギッシュな先生が好きになれず、まったく興味を持てなかった地理だけど、こうして実際に旅をしていると俄然興味が沸き、楽しく読めてしまうから不思議だ。ともちゃんも同感らしく、「高校生の頃に全部やった気がするのに、ちっとも思い出せない。もっと勉強しておけば……」とお決まりのセリフを言い、ガックリと肩を落とすのだ。

高校生の頃は恋愛だの友達だのお洋服だの、自分の周囲でいっぱいいっぱいで、勉強なんてまったく興味がなかった。でもいざ自分が進んで外国に行き、自分と周囲の違いをもうちょっと広い目で見てみると、高校生の頃のいわゆる「勉強」と言われていた知識を身につけたくなってくる。もし高校生の頃世界一周旅行に出ていれば、絶対に地理に強い高校生になっていただろう。最近、成田に行くとよくルーズソックスを履いた女子高生が大挙していたりする。いっそのこと、世界一周航空券で5大陸すべてをひとり旅すること!という夏休みの宿題はどうかしら? まったく責任は持てないけど(笑)。でもただ黒板を写すだけの勉強よりは役に立つ知識と興味が得られる気がする。

ハノイの古本屋にて買い取ってもらう。「This is like a guide book!」と地図のページを指して交渉したが(古本屋ではガイドブックのほうが高く買い取ってくれる)、ベトナム人のおばちゃんは天性の嗅覚で教科書っぽい堅苦しい本だと察知したのか、あまり高い値はつけてくれなかった。

 

 

「敗れざる者たち」 沢木耕太郎

中国の敦煌のツーリスト・カフェに置いてあった本。ハノイでゲットした「中国語会話集」と交換でゲットした。沢木耕太郎といえば旅人のあいだでは「深夜特急」があまりにも有名だが、旅だけではなくスポーツや映画など、彼のテリトリーは実に幅広いのだ。プロレスラー、ボクサー、ジョッキーなどなど、スポーツ選手をじっくりとルポしたこの「敗れざる者たち」も実に奥行きが深く、厚さの割に読み応えある作品だった。

「敗れざる者」……言ってしまえば負け犬を題材に持ってきているこの本は、読み手にとっても書き手にとっても「痛い」表現がいくつもある。志なかばで自殺したマラソン選手、消息不明になってしまった元プロ野球選手……スポーツという過酷な世界では、勝者がいるいっぽう、もちろん敗者もいるのだ。そして勝者にドラマがあるように、敗者にもドラマがある。勝者よりもずっと生々しく、痛々しいドラマが。

そもそも、このホームページごときでも思うのだが、「書きたいことを書く」というのは簡単なようでいて実に難しい。ルポタージュという、対象が人だったり現象だったりするとなおさらだ。自分のなかのエクスキューズはもちろん、沢木氏ぐらいになれば「これ書いちゃっていいのかしら?」というしがらみもあるだろう。けれど、さすがは沢木耕太郎。目に見えない葛藤やらしがらみを打ち破り、どこまでも深く追い求めていく。その姿勢が行間からにじみ出ていて、「さすが沢木氏、男だなあ」とつい頭が下がってしまうような力作なのである。

 

 

「いまこの人が好きだ!」 椎名誠

「コレ、おもしろかったですよ」。例によってカトマンドゥのナイチンゲールにてゲットしたこの本が部屋に置いてあるのを見て、訪ねてきた旅行者がひとこと。シーナさんのルポは、私も好きだ。力まず、フラットな視線で書かれていて、思わず「ククク」としてしまうことやら、「なーるほど」と深く頷いちゃうことも多い。

実は私が高校生の頃、通っている高校にシーナさんが公演に来るという事件があった。当時からシーナさんファンの私としては、これはもう事件なのである。作家らしからぬステキすぎる外見、とつとつと話す口調に、高校生らしく胸ドキュンしちゃった私。照れながら語られた話もワイルドで、当時から年上好きの私としては「私の理想の人、見つけちゃった!」つう興奮ぶりだったのだ。時は過ぎてもそのときの熱い思いは胸の奥底にこびりつき、椎名誠という名前を見つけると、海外でもなんでもついつい手が出てしまう。実際、旅人にも人気があるらしく、アジアではいろいろなところで彼の本を目にしたが、そのたびに「ああ読まなきゃ」という気になってしまうのである。

でもってそんなシーナさんが「いまこの人が好きだ!」という。やきもち半分?読み進めていくと、これがまた、愉快なのだ。シーナさんが近頃(といってもずいぶん前の時代だけど)気になる人をルポしているのだが、その相手はもちろん一流なスターもいるけれど、近所のラーメン屋のおじさんだったり、たまたま妻が乗り合わせたタクシーの女運転手だったりと、市井の人も多い。スゴイ人も普通のスゴイ人もシーナさん流のあの口調で、テンポよく語られていくのだ。おもしろくないはずはない。

読み終えて、思った。私も「いまこの人が好きだ!」といってシーナさんに会いたい。あんまり大きな声じゃ言えないけれど、これがいまのところ、私の密かな夢なのである。あっという間に読んでしまったので、もと通り、ナイチンゲールの本棚に戻っていった。

 

 

「中国の鳥人」 椎名誠

これも例によって例のとおり、カトマンドゥのナイチンゲールにてゲットした。同名のタイトルで映画化されていたから、記憶にある人も多いだろう。シーナさんの作品はルポや紀行文など「ハッピー系」なものと、SFなどの「シュール系」なものに分けられると思うが、これは明らかに「シュール系」。しかもシュールなだけじゃなく、ちょっぴり恐い。ルポや紀行文などをメインに読んでいる人には、同じ作家と思えないかもしれない。

タイトルにもなった短編「中国の鳥人」だが、映画のロケは中国の雲南省で行われたという。映画のロケ地には行けなかったが、今回の旅行で中国は雲南省から入国した私にとっては、なんだかその情景が浮かんでくるようだった。辺境をいろいろと旅しているシーナさんだからこその舞台設定にはむむむとうならされる。どこでもパワフルな大声で、むしゃむしゃとよく食べる中国人だけれど、「鳥人」、つまり空を飛べる人がいてもおかしくなさそうなのも中国人なのだ。

シーナさんの本にあって、珍しく読むのに時間がかかった。短編集というのもあるが、ひとつひとつが強烈で、ひとつ読んでは本を置きため息、ひとつ読んでは本を置きため息……と味わっていため(恐かったというのもある)。それでもカトマンドゥにいるうちには読みきったので、もとのナイチンゲールにて引き取ってもらった。

 

 

「ASIAN JAPANESE」 「ASIAN JAPANESE 2」 小林紀晴

「バックパッカー」が一般名詞として知られるようになった理由のひとつに、この本のヒットが挙げられるだろう。出た当時私も購入したが、カトマンドゥのナイチンゲールでハードカバーながら2冊とも揃っているのを見て、つい手に取ってしまった。まさに「ASIAN JAPANESE」な私がいま読んだらどう思うのかしら?と気になったのである。

旅の楽しみのひとつに、普段は出会わない人に出会えるというのがある。現地の人はもちろんだけど、旅行者同士の出会いも、相当にドラマチックだ。皆それぞれの旅があり、それぞれの進む道がある。この「ASIAN JAPANESE」に出てくる旅行者も、私たちがどこかで出会ったような、けれど決して出会っていない人たちである。ある人は旅途中で命を落とし、ある人はまた旅に出る。個人的にはもっとサラっとしたテイストのルポのほうが好きだけれど、それが小林紀晴氏の持ち味なのだから仕方ない。

それから、この手のルポにして新しいのは、ポートレイトがそれぞれに添えられていることだ。「いまの子は本を読まない」なんて言葉も聞かれるけれど、それはそれだけ映像やら写真やら、視覚的なものが発達してきたからだろう。写真があることによって増すリアリティ。それはこのホームページをやっていても、「写真があっていい」という言葉をよくいただくように、いまの時代、必須条件にもなってきている。それをいち早く、しかもハイ・クオリティで載せているのが、成功のカギかもしれない。

仕事を辞め、カメラをかかえてのアジア長旅。私たちの旅立ちははっきりいって勢いだったけれど、彼の旅はそれなりの覚悟の旅である。「何かを知ろう」、「何かを身につけたい」そんな大志を抱いての旅。たいがいの旅行者は大志を抱いているものだけど、ユルユルした旅の日常につかっているうちに、そんな旅立ち当初の大志など、どこか遠いところにいってしまうものだ。彼と同じことを考える人は多いだろうけれど、実際に形にできている人は少ない。それを形にした小林紀晴氏はエライ。これもハードカバーなので速攻ナイチンゲールに返却。

 

 

「笑うアジア」 下川裕治編

ナイチンゲールで「なんか軽い本が読みたい」と思っていたときに目に止まった本。アジアを旅していて出会った爆笑珍事をまとめた本。旅行者同士が宿でビールなどを飲みながら語らうようなヨタ話が満載で、そのタイトルどおり、笑わせてもらった。

特にスゴイのが、いちばん最初に収録されている話。旅の話ではなく、逆に旅して出会った現地の人を日本に招いたときのエピソードである。南の島でアバンチュールを楽しんだ相手を、“ひまつぶしに”日本に招いてみたら……という、誰でも一度は思いつくような出来事の顛末は、これでもか!というほどにヒドイ。でもってかなり笑える。南の島ではステキなアバンチュール相手でも、この経済大国ニッポンではただの野人なのである。この本を回し読みした旅行者同士でも「ホントなのかね〜、笑えるよね〜」としばし話題になったほど。やっぱりサクっと読み終えて、ナイチンゲールに返却。

 

 

「インド三国志」 陳舜臣

ネパールのカトマンドゥのナイチンゲールにて、ともちゃんが購入。陳舜臣といえばやはり「三国志」が有名だが、この本をともちゃんが買ってきたときには、なんだか「ご当地もの」という感じがしてうれしかった。

インドといえばムガール帝国、という単語は確か高校の世界史で習った気がするけど、当時かなりダメダメ高校生だった私はそれらにちっとも興味を持てず、初めてインドに来たときにあまりにその歴史に無知なのを痛く後悔したのだ。旅をしていると、地理や歴史といった社会、それから英語をメインにした語学の勉強をしているなぁと思うことがある。その半面、ああ高校生のときにもうちょっと先生の言うことでも聞いて勉強しておけばよかったわ、口うるさいからキライだった担任の中森先生、やっぱりアナタの言った通りでした……なんて思う場面も多い。

必ずしもそれがすべてではないけれど、旅は予習して行ったほうがおもしろ味が増すこともある。特にインドは広大な国だし、無数にある遺跡や寺院や建築物を見てまわるときにちょっとでも歴史の知識があると、それらのつながりがわかって楽しい。そんな予習にピッタリだと思ったのがこの本。ムガール帝国第6代皇帝のアウラングゼーブを中心にムガール帝国全体の歴史&周辺民族の歴史が丁寧に描かれている。状況説明が多く、「早く本編に入れよ〜」と思わせるところが玉にキズ。しかしそれを差し引いてもインドにちょっとでも興味がある人には超オススメな本だ。

バラナシで隣の宿に泊まっていたナイスガイの日本人旅行者に「この本読んでインドを旅してると『なるほど〜』って思うことが多いんだよ!!」と鼻息も荒くオススメし、晴れてもらわれていった。

 

 

「ガンジー自伝」 ガンジー(蝋山芳郎訳)

インドはカジュラーホーで宿泊した「Hotel Jain 」に置いてあったもの。分厚いカバーなしの文庫本に、なんだかこれをどこからか持ってきた日本人旅行者の気概みたいものを感じた。実際手にとってみると、解説が色々付いているし、なかなかディープそうな本だわ、という印象だった。

これがとにかくおもしろい! ガンジーといえば丸めがねのおじいさんで「非暴力、非抵抗」を唱えインドを導いた「リッパな人」としてのイメージが強い。実際私も小学校の夏休みの宿題の読書感想文で「ガンジーみたいな人になりたいと思います」とかテキトーなことを書いた記憶がある。けれど実際に彼の手で書かれたこの自伝をいま読んでみると、ハッキリ言ってかなりぶっ飛んでる人だ。

自伝は1920年代に出版されたから、彼がインドを独立へと導いた1940年代の運動全盛期のこと、高齢ながら全国行脚の旅に出たことなど(このときの歩いている写真が小学校の頃の教科書に載っていたような……)、普通の伝記ではハイライトになるところが書かれていない。いわば彼のベーシック、「いかにして指導者になったか」という話がメインだ。そしてその内容には「ガンジー哲学」ともいうべき思想がギュッと詰まっていて、話が宗教や体制のあり方などディープなところに入っていくこともしばしば。そのあたりが「伝記」とは大きく違うところだ。しかも彼の自ら手ほどきする思想というのも現代日本人の私から見ると、かなりストイックで、正直???と思うことも多い。彼の手では当然のように「僕のこの考えに周囲の人はビックリした」と書かれていることが多かったが、ハッキリ言ってそりゃあビックリするよ〜とこちらが思ってしまうものばかりだ。

たとえばインド人やインドかぶれの人にベジタリアンは多いけど、ガンジーのそれは徹底している。肉はもちろんいっさい食べないし、乳製品もとらない。肉汁を注射して直るのと注射しないで死ぬのであれば、死んだほうがまし! とまで言っている。人間は果物と豆で生きて行いけるのだ! と自信満々で書かれても、食いしん坊の私は「う〜む」と考えてしまうのだ。ハッキリ言ってガンジーみたいな人にはなりたくない(笑)。つうか私には絶対に彼のようになれないことがこの本を読んでみてハッキリとわかってしまった。やっぱりエライ人だ。

ガンジーのぶっ飛び方もさることながら、当時のインドの状況や彼が21年も過ごした南アフリカの環境などを知ることもおもしろい。特に南アフリカはこれから訪れる地だけに、それを書かれた当時の状況と現在との差異を感じるのも楽しみだ。何より、インドと南アフリカのつながり、そして南アフリカにもインド人の歴史があることを知ったのは未知なる国だと思っていただけに、なんだかうれしかった。再読に耐えうる本だと思ったので、読後もキープしている。返却しなければいけない本だったが、代わりにともちゃんの持っていた「深夜特急6」を差し出す。

 

 

「家族趣味」 乃南アサ

これもカジュラーホーの宿「Hotel Jain」に置いてあったもの。おもしろかった。いわゆる推理小説はあまり読まないが、こういう短編ミステリーは意外と好きだ。特に彼女の作品の場合は、読んでいると背後からそーっと恐怖が忍び寄ってくるようで、そのちょっとした怖さがたまらない。ありそうで、ちょっと怖い話。オバケ、怪物によるホラーじゃなくて、人間の持つ怖さ。たぶん人間描写が鋭いからこそ、このシュールさが出るのだろう。

世界各地には数々の妖怪伝説やら怪奇話がある。でも「ふと目が覚めたら線路脇で寝てて、しかも有り金は全部なくなっていた。バスで知り合った現地人にすすめられたジュースに睡眠薬が盛られていたらしい」なんて話は、私たち旅人にとっては妖怪よりもずっと怖い。この小説を読んで「人間って怖〜い」なんて思えているうちが幸せなんだろう。

 

 

「風景進化論」 椎名誠

これを言うのはいちいち照れるけど、やっぱり私のフェイバリットのひとり椎名誠氏のエッセイ集。同名で月刊誌に連載していたものの単行本。「風景にまつわるエッセイ」なんて難しそうだけど、思うに、これはタイトルがもうちょっと違うものだったらなあと思う。なんだか、小難しそうなタイトルにちょっとビビってかまえてしまった私。

でも読んでるとそのへんのタイトルにまつわることもちゃんと書かれてるし、読み終わると「フム、なるほど進化してるね」と頷いてしまうところもあって、そのへんがさすがシーナさん。そのときのテンションで内容がガラリと変わってしまう各章を比較してもおもしろいし。私的には「いまいち……」と思ったものもあったが、これは好き好きだと思う。

それにしてもたぶん私がシーナさんが好きなところのひとつに、彼は私の行きたいいろんな場所に行ってるということがあると思う。「パタゴニアの青い空を見ていたら、風景が音をたててガチャンと進化した」なんて言われたら、パタゴニアに行きたくてうずうずしてしまうのだ。いろんな風景を見てる人だわあと思いつつ、目をハートにして本を閉じた。

 

 

「馬追い旅日記」 椎名誠

またまたカトマンズのナイチンゲールにて借りたシーナさんの本。嫌いな人はゴメンナサイ。シーナさんが「白い馬」という映画を作っている期間の日記をまとめたもの。日記形式のものって、よっぽどその人自身が前に出ていない限り、あまりおもしろいと思えないことが多い。けれど、この本はそんな「どうせ日記がずーっと続いてるんでしょ」という固定観念を崩してくれた。

シーナさんの出してるものを読んでいると「この人っていい暮らししてるなあ」とつい思ってしまう。いろんなところに行けて、好きなように書いて。だけどこの日記を見ていると、当たり前だけど「一日中原稿書き」とか「忙しい」とか地味な日も多かったりして、決して悠々自適に過ごしてるわけじゃないのがよくわかる。や、むしろ普通の人と同じように24時間の中に生きていて、家を2軒持って行ったり来たり、モンゴルに行ったりパタゴニアに行ったり、連載をやったり日記を書いたり書き下ろしたりしている。その間に奥様がチベットに行ったり、アメリカから息子が帰ってきたりとパパの顔も。タフじゃなきゃ椎名誠はできないのね、というのが謎証しされているのだ。

日記形式でも小説のようなハイライト感があるのは、モンゴルでの映画の撮影までの道のりがつぶさに書かれているからだろう。たとえば映画を作るお金のことやら裏側まで、「赤裸々に!」とうたうことなく、普通な調子で語っている。その前後関係がわかっているから、モンゴルに撮影に行った期間は、ついつい身を乗り出して読んでしまう。

映画のプロモーションの一環で出された本だと思うが、映画を観ていなくても楽しめる。「映画ってどういう風に作ってるのかなあ」と素朴に思う人にもオススメ。なんだかんだ言って、私はただのファンですな。速攻読んだので、ナイチンゲールにまた返却。

 

 

「原色の街・驟雨」 吉行淳之介

これもカトマンドゥのナイチンゲールでゲットしたもの。吉行氏といえば失礼ながら「セクシーなおじいさま」という印象があったが、代表作と呼び名の高い今作もやはりそのイメージを裏切らなかった。昭和の遊郭を舞台にした内容は、どこまでも色っぽく、それでいて卑猥な感じがない。

こうしてしばらく日本を離れていると、つくづく「私って日本のこと何も知らないのねえ」と思うことがしばしばある。「日本に戻ったら、日本一周だね!」なんて冗談半分、ホンキ半分でダンナとよく語らうけれど、これを読んでいると、いっそうそんな気分になる。私の知らない「日本」がここにあるし、ここに書かれている昭和はあくまでも昭和的だし。

海外では村上春樹氏あたりがいまいちばん有名なんだろうけれど、吉行氏だって、海外で十分過ぎるぐらいに受け入れられるだろう(ってもう海外版も色々出てるのかしら)。谷崎潤一郎の「痴人の愛」が「NAOMI」と英訳されてヒットしていたように。でもこの行間のニュアンスを翻訳するのは難しそうだわ〜と思いながら、また再びナイチンゲールの棚に戻した。

 

 

「ドラえもん のび太と銀河超特急」 「ドラえもん のび太と雲の王国」

旅で知り合ったカップルの宿に遊びに行って、ドラえもんを見た瞬間「うわあ読みたい」と思わず口から出てしまった。快く貸してもらえることになったが、これがまたおもしろい。思うにドラえもんって、旅に向きな気がするなあ。読んでいるだけでワクワクしてくるし。さくさく読めるし。移動のときなんかにピッタリだ。

思えば私がドラえもんに初めてお世話になったときは「21世紀」なんて夢の夢、はるかかなたのことだった。21世紀になって、こんなボロイ安宿で必死に漫画を読んでいるなんて考えもしなかった(笑)。21世紀がやってきても何も変わらない、という人もいる。けれど少なくともいまお金さえあればふらりと海外に行けてしまうのというのはテクノロジーの進化のたまものであって、大きな目で見れば劇的な変化でもある。

「ドラえもんがいたら、まずなんの道具を出してもらう?」なんてお決まりの質問をしつつ、まだ見ぬ未来に期待を膨らましつつ、安宿の夜は更けていくのであった。

 

 

「とらちゃん」 群ようこ

実は群ようこのなかで、いちばん好きなのがこの「とらちゃん」だ。私は小さい頃から何かと猫にはお世話になってきた。一時期、最高で6匹もの猫が家にいたこともある。この「とらちゃん」は作者が飼っていたペットたちの話で、なかでも「とらちゃん」と名づけられたクレバーな猫の様子は、猫好きの私は読んでいてクスクス笑い出し、最後には身もだえしてしまうほど。動物ってその個体ごとに性格が全然違うのね、と納得しつつ、でもそれは作者の鋭くもユーモアな観察眼があってこそ、のものかもしれない。

旅行していると日本にいるよりはずっと動物に触れる機会が多い。うろうろと歩いているだけでとっつかまって殺されてしまう日本と違って、アジア諸国、特にインドあたりでは動物も人間もなにかも一緒くたに生活している。人と違って動物は「おいで!」と手を差し伸べてみても、興味がなければプイとそっぽを向くし、興味があれば寄ってくる。「この人、実はだまそうとしてるんじゃないの?」なんて警戒心を持つ必要もない。

それでもおもしろいのは土地によって動物の性格というのはある程度違ってくるということ。インドにいる犬はたいてい病気持ちでしょんぼりとしているし、チベットの野良犬や番犬は人を見ると攻撃的にバウバウと吠えてくる。バンコクの猫は人間を見るとじっと警戒の目を向けてサッとどこかに隠れてしまうけれど、南国、特に島の猫なんかは手を差し伸べるとすぐにゴロニャーンとスリスリしてくる。まさにところ変われば……なのだ。

とはいえ、群ようこが「とらちゃん」をどっぷり可愛がっているように、私も自分の飼っている猫が世界でいちばんかわいいと信じている。おまぬけで子供っぽさの抜けない我が家の「ももちゃん」だけど、こうして猫のことを考えていると、ついつい思い出してしまう。読後、しきりに「ももちゃんに会いたい〜」とつぶやいてしまった。

 

 

「青春漂流」 立花隆

わざわざ日本から来た友人が持ってきてくれたお土産に入っていた、立花隆の初期のルポ。ナニモノかになろうと苦闘し、まさにその道のまっただなかにいる市井の人々をルポしたもの。多くの人が職人としてスペシャリストの道を選び、その中で葛藤している姿が描かれている。最年少で日本一になったソムリエの青年、山奥でひっそりと家具を作る男、1日にトン単位の肉をさばく職人……普通の人のドラマはリアリティがあって、読んでいてつい自分を重ねてしまう。

思えばこの本は旅の中で何度か目にした。安宿の本棚にひっそりと佇んでいたりもしたし、カトマンドゥの古本屋でも見かけた。長旅をしている人は、たいてい仕事を辞めていることが多く、そういう意味ではいまだ青春真っ只中の苦悩の人が多い。かくいう私も今後の身の振り方はまったくの白紙であり、何かになれそうな気もするし、ダメな人生を送る可能性だっておおいにあるのだ。そんな根無し草の旅人が「何かのヒントになるかもしれない」とこの本を手にとるのはもっともだろう。

はたしていまの私はナニモノなのだろう? 「一生青春だわ」と見栄を張って答えたい気持ちもあるけれど、私の青春はいったいいつからいつまでなのだろう。こうやって何にも縛られないで好きなことをしている生活は心地よいけれど、これが永遠に続くわけないし……。いろんな人の人生をちょっとずつ垣間見ながら、アレコレ自問してしまった。